個人情報流出をめぐるニュースが連日続く中、目的の不透明さに加え、実際にウェブサイトやシステムが機能せず、普段のサービスがスムーズに受けられないといった具体的な不便さも表面化している。その背後にある静かな脅威と相まって、私たちの日常に漠然とした不安感をあおるばかり。
思えば、企業が顧客にサービスを提供し、より正確で合理的な体験をもたらすためにデジタル化が進んできた。その恩恵として、消費者側も様々な利便性を手に入れた。例えば、旅行や出張のたびに切符を買う目的で駅の窓口に並び、長い待ち時間を強いられた昭和の時代に比べれば、ネットで新幹線のチケットを予約できるようになった今、窓口に出向く手間も待ち時間もゼロになった。ECサイトでの決済にアカウント情報を紐づければ、わずか数タップで買い物が完了する。
だが、その便利さと引き換えに、私たちはある種の「義務」を課されている。「サービスを受けたければ、まず自身の個人情報を差し出せ」という不可避のトレードオフである。私たちは利便性の代償として、自らの情報を常に差し出し続けるリスクを背負い込んでいるのだ。
テクノロジーがもたらす便利さは、往々にして「別の不便さ」をも生み出していく。例えば家電製品一つを取っても、高機能なものを使いこなせるには相応の知識と経験が求められる。それがなければ、機能の恩恵にあずかることすらできない。
では、すべてをAIに任せれば解決するのかといえば、それも完全ではない。利便性を極限まで追求した先には、必ず「次の不便さ」や「新たな不安」が生み出されていく。AIを使えば、誰もが瞬時に体裁の良い資料を作り、それなりの正解をアウトプットできるようになった。しかし、その表面的な「できた感」の裏で、人間側の思考力や思慮深さが置き去りにされているケースは少なくない。現場で資料は綺麗にまとまっているのに、少し角度を変えた質問を投げた途端に思考がピタッと止まってしまう。それは、AIに答えを丸投げした結果として、自分自身の頭で考える訓練を放棄してしまった姿そのものだ。便利なAIの裏で、逆に「深く思考しない人間」が生まれていくこと。それ自体が、現代の私たちが抱える「新たな不安」と言える。便利さの追求は、個人情報の流出リスクだけでなく、人間の「思考する力」の空洞化という目に見えないリスクをも生み出しているのだ。
そうした技術の進化と向き合うとき、人類の歴史は、科学や技術を発達させることで生存領域を拡大し、できなかったことをできるようにしてきた歴史だとも言える。私たちは新しい刺激や効率を求め、そのループを幾度となく繰り返してきた。
しかし、企業が競争するようにデータを求め、AIがあらゆる思考を代替する現代において、私たちは一度立ち止まる必要がある。ここで重要なのは、デジタルやAIを否定することではない。テクノロジー自体に罪はなく、それをどのように使いこなし、どこまで身を委ねるのかという私たち自身の「自己防衛の在り方」が問われているのだ。
企業側の利便性の追求や競争の波にただ流されるのではなく、生活者側がデジタルとの距離感を再定義するフェーズに来ている。すべてのサービスに自分の情報を無防備に服従させる必要はない。「あれば便利」という程度の領域については、個人情報の登録を潔く見直す。そして何より、AIや便利なツールに思考のプロセスを明け渡さず、自らの頭で問いを立て、深く考える習慣を手放さないこと。
デジタルがもたらした恩恵の利便性を享受しながらも、依存しすぎず、自らの手で境界線を引くこと。その主体的な取捨選択と自己規律こそが、これからのデジタル社会を賢く生き抜くための、最も確実な防衛策なのではないだろうか。
(文/山田郁二)