歴史を振り返れば、人類は「どのような社会システムが人を最も幸せにするか」を巡って、血を流すような対立を繰り返してきた。一握りの資本家が富と時間を独占する「資本主義」のバグを暴いたマルクスは、誰もが平等に分配を受け取れる「社会主義」というステップを構想した。
しかし、現実の歴史が私たちに見せているのは、あまりにも冷酷な皮肉である。
国が唯一の雇い主となった社会主義国家では、資本家の代わりに「国家の官僚(特権階級)」が現場をコントロールし、人々の自由を奪った。また、社会主義の看板を掲げながら市場経済を取り入れたお隣の中国を見れば、そこには資本主義国以上の著しい富の格差が広がっている。国家という巨大な企業と、国境なき資本家たちが、今も世界中で飽くなきゼロサムゲーム(奪い合い)を繰り広げ、その強欲さのしわ寄せは、常に不条理に泣く民衆へと向かう。
この現実を前にしたとき、私たちは気づかざるを得ない。資本主義か、社会主義かという「看板の良し悪し」をどれだけ論じたところで、それは本質ではないのだ。
なぜなら、どちらのシステムであっても、根底にある「強者が弱者から搾取する、奪い合う」という人間の強欲な思考( OS )が変わらない限り、主役の座が「企業の社長」から「国の役人」に交代するだけで、舞台の上で起きている悲劇の本質は何一つ変わらないからだ。仕組みが人を不幸にするのではない。システムを動かす人間の精神のあり方こそが、不条理を生み出し続けているのである。
世の中ではよく、「お金だけでは幸せにならないが、お金がなければ幸せにもなれない」という言葉が、現実的な大人の正論として語られる。しかし今、私はこの言葉の裏に、ある不気味な気配を感じている。これは、私たちを自ら進んでシステムの歯車にさせ、富を吸い上げ続けるために強者が仕掛けた、巧妙な「搾取の呪文」なのではないか、と。
お金という「交換価値」を主役にして生きることを受け入れた瞬間、私たちは「もっと稼がなければ」「もっと効率を上げなければ」という強迫観念に囚われ、自らの大切な命の時間を市場へと差し出してしまう。富の増殖には終わりがない。だからこそ、お金をモノサシにしている限り、私たちはどれだけタイパを上げても、その束縛から永遠に逃れることはできないのだ。
ニュースから流れる不条理な現実や、終わりのない効率化の波に揉まれるたび、私たちは深い憂いや無力感を覚えることもある。しかし、私たちはその絶望を静かに乗り越えて、次の精神ステージへと向かわなければならない。
その束縛から抜け出し、新しいステージへと向かう変革は、決して革命のような大号令ではない。それは、システムに奪われた主役の座を「自分自身」へと取り戻し、限られた時間の中で、心穏やかに充実したときを自らの手で紡いでいくという、日々の静かな決意から始まる。
2010年を境に人口減少へと転じたこの日本で、これからの私たちに必要なのは、一方的なシステムに自分をハメ込むことではない。仕事を通じて自分の可能性に挑戦し、新しい価値を生み出したい人には、効率に縛られず挑戦できる「豊かな時間」を。仕事は生活の基盤と割り切り、平穏な日常を守りたい人には、理不尽に追われることのない「安全な余白」を。それぞれがシステムの都合ではなく、「自分の物差し」で心地よい環境を選び取り、人生を豊かに編集していくことだ。
まずは、お金という首輪を外すこと。そこから、システムに支配されない本当の自分の時間が動き出す。
(文/山田郁二)