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大手回転寿司チェーンで起きたキャラクター景品をめぐる騒動を耳にして、何とも言えない苦い後味が残った。

現場の従業員が景品をくすねてフリマアプリで転売し、客側は「いくら食べても当たりが出ない」と憤る。果てはキャンペーンそのものが中止に追い込まれたという。

管理体制の甘さやコンプライアンスの欠如を責める声は多い。だが私には、この一件が単なる一個人のモラルハザードや手落ちとは思えない。起きるべくして起きた、構造の歪みが招いた帰結のように思えてならないのだ。

人気キャラクターの熱狂に、提供する側も、提供される側も侵されてしまった。

手っ取り早く目先の数字を跳ね上げたい企業は、その熱狂を集客のドーピングとして利用する。そして本来、お客様に食事を届けるべき提供側の内部から、その熱狂を利用して私腹を肥やそうとする者まで現れる。そこに、食事という営みや、店という空間に対する敬意はない。あるのは、過熱したコンテンツを媒介にした「利得の奪い合い」だけだ。

そもそも、販促とは何だろうか。

安売りをする。オマケをつける。強力なキャラクターを担ぎ出す。多くの企業が「販促」と呼んでいるものは、突き詰めれば「売り手の都合」で客の背中を無理やり押す行為に過ぎない。「今月の売上をあと数パーセント積み増したい」「客単価をもう数百円引き上げたい」――そうした売り手の都合を叶えるために、外部の知名度に頼り、胃袋の限界を超えて皿を投入させる。

しかし、本来の販促とは「お客様の都合」に応えることではないだろうか。

たとえば家具の買い替えを考えるとき、お客様が本当に望んでいるのは「数千円の値引き」だろうか。

それ以上に切実なのは、「いま部屋にある古いソファをどう処分するか」という頭の痛い問題だったりする。重くて動かせない粗大ごみを、新しい家具の搬入と同時に引き取ってあげる。その手間を取り除いて差し上げることこそが、値引きをはるかに超える「買う理由」になり、顧客への誠意になる。

販促とは、お客様が望んでいること、困っていることに先回りして注力することだ。自社の都合を押し付ける道具ではない。

回転寿司の進化はめざましい。

注文はタッチパネル、運ぶのは特急レーン、会計はセンサー。効率化と合理化を極限まで磨き上げたオペレーションには、各社とも並々ならぬ自負があるはずだ。かつて店員さんがテーブルに来て、お皿をリズミカルに数えてくれた光景を懐かしく思い出すこともあるが、時代の要請に応えた進化そのものを否定するつもりはない。

だが、効率化を極め、どこへ行っても同じような体験ができるようになった結果、業界全体が「没個性」の罠に落ちてはいないか。

「〇〇といえば、あの店」という独自の想起が描けず、客はただ「いちばん近くにある店」を選ぶ。だからこそ、差別化に焦り、手っ取り早く客を呼べる強力なキャラクターに依存してしまう。しかし、それは資本力のある者同士の消耗戦であり、キャラクターが去れば客も去る、砂上の楼閣でしかない。

過剰なエンタメ化の果てに、客席で繰り広げられたのは「寿司を味わう時間」ではなく、「カプセルを出すために機械へ皿を流し込む作業」だった。

シャリの温もりも、魚の鮮度も、作り手の矜持も、すべてが景品を手に入れるための脇役に成り下がってしまう。これほど飲食店として悲しい主客転倒があるだろうか。

問われているのは、「不正を起こさない監視の仕組み」ではない。

「自分たちはお客様にどんな時間を届けたいのか」という、商売の本質への原点回帰だ。

そもそも寿司屋といえば値段が高く、庶民がそうそう気軽に暖簾をくぐれる場所ではなかった。そんな敷居の高いご馳走を、誰もが気兼ねなく、美味しくお腹いっぱいに食べられるように――その純粋な志から誕生したのが、回転寿司だったはずだ。

家族や仲間と肩を並べ、目の前を流れる美味しそうな寿司に目を輝かせる。

そんな日常のささやかな豊かさを届けることこそが、回転寿司が持つ本来の価値であり、原点ではなかったか。

派手な仕掛けや打ち上げ花火に惑わされることなく、目の前の一皿に真摯に向き合うこと。お客様が本当に求めている居心地や喜びに寄り添うこと。遠回りに見えても、そうした誠実な積み重ねの先にしか、誰にも奪われないブランドの信頼は築けないのだと思う。

(文/山田郁二)