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六十五歳という年齢の節目を迎えると、食卓の景色は以前とは少し違って見えるようになる。かつてのように「質より量」で腹を満たす時期は過ぎ、今は「良いものを少しだけ、健やかに」という願いが、買い物カゴを持つ手に宿るようになった。そうした変化の中で、改めて地域のスーパーマーケットという存在の深さに気づかされる。

東三河から遠州にかけて根を張る「クックマート」という店がある。この店の売り場には、大手チェーンの合理性とは一線を画す「熱」がある。それを支えているのは、現場の担当者が自ら目利きし、価格を決め、売り方を考えるという、商売の原点ともいえる仕組みだ。

特筆すべきは、店と中間業者(ベンダー)との間に流れる「良質な緊張感」だろう。店側は単に注文を出すのではない。「今日は最高のアジが欲しい」「お客様を驚かせる肉を仕入れたい」という、プロとしての熱い「お題」を投げかける。すると業者はその意気に感じ、プロの目利きで期待を上回る提案を持って応える。この「お題と提案」の繰り返しが、売り場にライブ感をもたらす。そこには、単に「安さ」を競うのではない、プロ同士の意地と信頼が結晶した、確かな商品が並ぶのである。

そうして作られた売り場は、知らず知らずのうちにお客様を「育てて」いく。店が熱を持って勧める新しい美味しさに触れ、お客様が「知らなかった価値」に気づく。その成功体験の積み重ねが、単なる消費者を、食の喜びを知る「成熟した生活者」へと変えていくのだ。お客様をナーチャリング(育成)するというのは、店と客が共に歩み、地域の食文化のレベルを底上げしていくプロセスに他ならない。

一方で、地域社会の豊かさとは、決して一つの正解だけで成り立つものではない。年金暮らしの中で一円の安さを切実に求める日もあれば、体調や気分によって支出を抑えたい時もある。だからこそ、街の中に異なる役割を持つ店が共存し、自分の都合で「使い分け」ができる環境があることが、住みやすさの真髄だと思うのだ。

日用品や備蓄品、保存のきく食品は、圧倒的な低価格を誇るディスカウントストアやドラッグストアで賢く揃え、家計の土台を守る。安心感を求める時は、均一なサービスが保証された大手スーパーを利用する。そして、自分へのご褒美や健康への投資、家族の記念日には、クックマートで心躍る発見と鮮度を手に入れる。

こうした「理性の買い物」と「感性の買い物」を、その時々のライフステージや財布の状況に合わせて自在に選択できること。この多様性こそが、住民にとっての「暮らしのセーフティネット」であり、街への愛着を生む源泉なのではないだろうか。

食事の量が減るということは、一食一食の価値が相対的に上がるということだ。

私たちが求めるのは、単なる栄養補給ではない。信頼できるプロたちが磨き上げた食材を、自分の納得感とともに手に入れ、それを慈しむように味わう。そうした「食を通じた尊厳」を支えてくれる店が街にあり、同時に日々の節約を支えてくれる店もまた側にある。そのバランスこそが、これからの人生を歩む上での、静かな、しかし確かな安心感に繋がっている。

店と業者、そしてお客様が三位一体となって磨き上げる食の循環。それを受け入れる地域の懐の深さ。それは、この街で生きる私たちの生活意識そのものを、今日も少しずつ、豊かに塗り替えてくれている。

(文/山田郁二)