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最近、世の中で当たり前のように使われている「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉に、私はどこか喉に刺さった小さな棘のような違和感を抱えていた。時間を効率よく使い、短時間で多くの成果や情報を得る。一見、便利でスマートな生き方のように思えるが、本当にそれだけで私たちは幸せになれるのだろうか。

このモヤモヤの正体を探っていくと、思いがけず150年以上も前の経済学者、カール・マルクスの思想へと突き当たった。

マルクスが名著『資本論』で暴いたのは、資本主義というシステムが持つ「人間を置き去りにして暴走してしまう癖」だった。システムが効率や生産性、つまり「ボリューム(量)」ばかりを追い求めると、人間はその歯車となり、大切な命の時間は「コスト」として削り取られてしまう。

ここで皮肉なのは、効率化や生産性向上によってせっかく生まれたはずの「時間の余白」が、人間のゆとりにはならないということだ。システムはその空いた隙間に、さらなる別の仕事を容赦なく付け加えていく。効率を上げれば上げるほど、生まれた富は資本家へと循環していくが、現場で働く人が受ける恩恵は少ない。それどころか、効率化を図れば図るほど、人間はさらに次の仕事に追われ、ますます多忙になっていくというバグの中に、私たちは生きているのだ。

思えば、日本が歩んできた「失われた30年」も、この効率と生産性のワナに国全体がハマってしまった結果だったのかもしれない。バブルが弾けた後、私たちは価値をじっくり育てることよりも、目先のコストカットや効率化に躍起になった。しかし、どれだけ「タイパ」を上げて時間を縮小しても、待っていたのは心のゆとりではなく、社会全体の閉塞感だった。

しかし今、時代は大きな地殻変動を迎えている。2010年を境に、日本は本格的な人口減少社会へと突入した。これは単なる危機の数字ではない。見方を変えれば、これまで資本主義を支えていた「いくらでも替えのきく労働力」という前提そのものが、物理的に崩壊したことを意味している。

さらに、スマートフォンを代表とする情報化の波は、人と人を網の目のように結びつけた。もはや、資本家が一方的に作った冷酷なシステムに、人々が黙って従う時代は終わったのだ。私たちは「資本主義か、社会主義か」といった古い一辺倒の二元論ではなく、「自分にとっての本当の幸せとは何か」を、薄々気が付き、模索し始めている。

ここで、私たちがもう一歩踏み込んで考えなければならない重要なことがある。それは、働く側の意識の多様性だ。

「これからは誰もが自発的、能動的にクリエイティブに生きるべきだ」という正論を、私は一概に振りかざしたくはない。世の中には、大きな責任を負うよりも、機械的にきっちりと仕事をこなす方が精神的に楽で、心地よいと感じる人も少なくないからだ。

能動的に仕事そのものに命を燃やす生き方も、受動的に自分のペースを守りながら平穏を愛する生き方も、それぞれの人にとって、最も心地よく呼吸ができる環境は異なる。それこそが、グラデーションに満ちた「人間らしさ」というものだろう。

これからの人口減少下の日本において、本当に必要なこと。それは、システムが人間を一律に管理することではなく、一人ひとりが「自分が望む働く環境を、主体的に選べる社会」を作ることではないだろうか。

仕事を通じて自分の可能性に挑戦し、新しい価値を生み出したい人には、効率に縛られず挑戦できる「豊かな時間」を。

仕事は生活の基盤と割り切り、平穏な日常を守りたい人には、理不尽に追われることのない「安全な余白」を。

一方的なシステムではもう回らないからこそ、私たちは今一度、目先の数字から人間へ、ボリュームから時間へと、物差しを切り替えなければならない。それぞれの人が、自身にとっての「人生の充実感」を選択し、それぞれの幸せを実現していく。そんな優しくてしなやかな「環境の編集」が、これからの未来にはきっと求められている。

(文/山田郁二)