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お盆の時期を迎えると、多くの人が故人を偲び、ご先祖を供養するために手を合わせる。そうした折にふと思い起こされるのが、幼少期の頃によく大人から聞かされた「悪いことをしたら地獄に落ちるよ」という言葉だ。

なぜ人は、そう思いたいのだろうか。

現実の世界を見渡せば、ルールを破り、巧妙にズルをした者が富や勝ちを得て、あたかもそれが「正義」であるかのように振る舞う場面に出くわす。一方で、真面目にルールを守り、誠実に生きている人が報われず、悔しい思いをすることも少なくない。

もし「死んだらそこですべて終わり、悪人の逃げ切り勝ち」なのだとしたら、真面目に生きる人間にとってあまりにもやりきれない。だからこそ人は、「現世で裁かれなかった悪事も、死後の世界や因果応報によって必ず清算されるはずだ」と思いたいのではないか。地獄や因果応報という観念は、現世の不条理に対する人間なりの抗いであり、道徳や心の平穏を保つための知恵であったと言える。

しかし、他人のズルを妬み、怒りに心を奪われることほど不幸せなことはない。

ならば、因果応報のほんとうの意味とは何だろうか。

それは、視線を外側の社会から「己の内面」へと移したときに、はじめて明確な姿を現す。

勉強をすれば知識が深まり、練習を重ねれば技術が身体に染み込む。鍛錬すれば、それなりに必ず上手くなる。この自らの積み重ねと成長の関係において、ズルや嘘は一切通用しない。原因(自らの取り組み)と結果(自らの高まり)が寸分たがわず噛み合うこの領域こそが、騙し合いの存在しない真の因果応報の世界である。

自分が磨き上げた人間的な深みや技量、積み重ねた徳を他の人が奪うことなど決してできない。

外の雑音や他人のズルを「やっかみ」として受け流し、心を動かさないこと。自分の生きる土俵を他人の評価や世渡りの損得ではなく、「自己の成長」に置くこと。

因果応報の本質とは、他人の不義を裁いて溜飲を下げるための道具ではない。自分が何を積み重ね、どう成長したかという誤魔化しのきかない事実と静かに向き合い続ける、強靭でしなやかな生き方の心得なのではないだろうか。

(文/山田郁二)