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いつからだろうか。私たちが何かに迷ったとき、まずスマートフォンの画面に向かって問いかけるようになったのは。

今やAIは、驚くべきスピードで進化を続けている。法律やマニュアルに沿った論理的な「正解」を、瞬時に、完璧な文章で提示してくれる。その精度を見るにつけ、おそらく近い将来、AIは人間の細やかな配慮や感情の機微さえもシミュレート(模倣)し、より「人間らしい」判断を下せるようになっていくだろうと私は予測している。

しかし、その利便性の光が強くなればなるほど、私の心には一つの濃い影が落ちる。

「AIが人間に近づく一方で、人間が自頭で考える癖を失い、逆に機械化していくのではないか」という危惧である。

もし、人間が「悩む」というプロセスをサボり、何でも効率的な正解に頼るようになれば、私たちは物事の背景にある複雑な人間関係や感情のグレーゾーンに耐えられなくなってしまう。最大公約数的な「正しさ」だけを武器に、他者を一律に裁き、突き放すような、冷たいマニュアル人間――それこそが、現代社会のディストピアではないか。

知識としての判断は機械に委ねられても、私たち人間には「心という感覚としての嗅覚」が絶対に不可欠だ。そして、その嗅覚を鍛えるためには、若年期に人の苦労や痛みを理解するという泥臭いトレーニングが欠かせない。

それこそが、本来の「しつけ(躾)」と呼ばれる営みなのだろう。

現代において、この「しつけ」と「虐待」の境界線は非常に曖昧になり、第三者の判断は往々にして機械的なものになりがちだ。手を上げた、怒鳴った、という表面的な事実(データ)だけをすくい上げ、組織や公的機関が自己防衛のためにスピーディーに介入し、マニュアル通りに処理していく。そこに「当事者たちの心のケア」が置き去りにされる不条理を、私は強く感じる。

同じ「叩く」という行為であったとしても、その後の対応で意味は真逆になる。

叩いた後に、ハッと我に返って我が子を強く抱きしめ、お互いに涙を流しながら「なぜダメだったのか」を伝えるのか。それとも、泣き叫ぶ子どもに対して、自らの感情の発散としてさらなる恐怖を突きつけるのか。そこにある「思い」の有無、信頼関係の有無によって、子どもの心に刻まれるものは「愛されている安心感」と「いつ壊されるか分からない恐怖」という、全く異なるものになる。

幼少期に恐怖によって支配された子どもは、他者と心を通わせるトレーニングを受けられないまま大人になる。そして自分が親になったとき、我が子を愛したいと願いながらも、自分の引き出しにある唯一の手段である「暴力」を無意識に再現してしまう。これが、世に言う「負の連鎖」の正体だ。

この連鎖を断ち切り、これからの時代を生きる人々の「心」を育てるために、私たちはどうあるべきか。

効率やタイパ(タイムパフォーマンス)を最優先するAI社会だからこそ、人間はもっと「正解のない、泥臭い人間関係」に時間を使うべきではないか。最短ルートで相手を従わせようとするのは機械のやり方だ。遠回りであっても、相手の手を握り、目を見て、お互いの痛みをぶつけ合いながら着地点を探すこと。その不器用なプロセスの中にしか、人間の心は育たない。

AIは、どれだけ賢くなっても、私たちの肩を叩いて「大変だったね」と一緒に涙を流してはくれない。その涙の価値を知っているのは、傷つき、悩み、痛みを経験してきた人間だけなのだ。

利便性と引き換えに、人間としての最後の砦である「嗅覚」を退化させてしまわないために。次世代へ「心を育てる時間」をどう残していけるか。大人の一人として、その責任の重さを静かに噛み締めている。

(文/山田郁二)