2026/7/14
ビジネス書を開けば、判で押したように同じようなマネジメント論が躍っている。「すぐに答えを教えるな」「自分で考えさせることが真のコーチングだ」と。
いつの間にか世間では、「どうしたら出来ると思う?」「自分で考えてみて」と問いかけること自体が、上司として「正しい姿」であるかのような常識が定着してしまった。
しかし、ここに大きな落とし穴がある。この世間のお墨付きを得たフレーズは、時として、上司が自らの「思考放棄」や「丸投げ」を正当化するための、格好の免罪符(メンザイフ)にすり替わっていることがあるからだ。
不思議なもので、まったく同じ「自分で考えろ(放任)」というスタンスをとっていても、部下によって上司への評価は真逆になる。
すでに自発的・能動的に動ける優秀な部下にとっては、そのスタンスは「束縛せず、自由にやらせてくれる信頼できる良い上司」と映るだろう。上司側も「自分のコーチングが機能している」と満足しがちだ。
だが、すべての部下が同じフェーズにいるわけではない。相手の力量や置かれた状況を無視して、一律に「自分で考えろ」を連発すると、それは途端に現場を壊す「毒」へと変貌する。
例えば、まだ経験の浅い若手社員の場合。
学校という「正解のある問い」の世界から、社会という「答えが無数にあり、やってみないと分からない世界」に飛び込んできたばかりの彼らに、丁寧な道筋も示さず「自分で考えて」と突き放せば、どうなるか。彼らは完全にフリーズしてしまう。
何をどうしてよいか分からず、仕事として動けない。上司に聞けば怒られる気がして、次第に上司を避けるようになる。最悪の場合、「会社に行きたくない」という深い拒絶を生むことすらある。知識や引き出しのない人に対して、このフレーズは育成ではなく、ただの言葉の凶器なのだ。
一方で、これが経験豊富なベテラン層であっても、突き放しが毒になることに変わりはない。
ベテランは現場を知り尽くしているからこそ、計画の破綻や現実的なリソース(タイムスケジュール)の限界、クリアすべき弊害が先に見えてしまう。彼らが熟考した上で「これは無理だ、あるいは別の方法にすべきだ」と判断したことに対し、上司が「もっとやり方を工夫して自分で考えろ!」と力技で押し通したらどうなるか。
ベテランは即座に、上司の「現場を理解していない浅さ」と「責任を取りたくない下心」を見抜く。結果として、フリーズではなく「冷ややかな諦め」が職場を支配する。「あの人のために汗をかきたくないが、とりあえず言われた通りやれるところまでやっておこう」と、意欲低下のまま仕事が進む。後になって「こんな結果になると思わなかった」と揶揄(やゆ)されれば、ベテランのモチベーションは一気に底をつく。
では、本来のマネジメントとは何だろうか。
それは、相手の力量や性格、キャリアステージを冷徹に見抜き、「どの段階にいるから、どこまでを指示し、どこからを預けるか」という塩梅(あんばい)を、一人ひとりに合わせて変えることに他ならない。
若手であれば、一定の知識や道筋を丁寧に説いたのちに、最後の最後の1歩だけを「自分で考えてごらん」と預ける。持ってきた拙い案に対して「ダメだ」と切り捨てるのではなく、「よく考えたね。じゃあ、この事例を交えてここをもう少し練り込んでみようか」と伴走する。ベテランであれば、現場の懸念を「やり方への固執」と片付けず、その裏にある現実的なリスクを上司自身が一緒に引き受ける。
上司が使う「自分で考えろ」は、仕事を押し付けるための言葉なのか。それとも、相手の成長を願う言葉なのか。
ステップの踏み方や情報の整理といったスキルの前に、最も大切なことがある。その言葉のイントネーションに、相手への「敬意」と「感謝」はこもっているか、という点だ。機械的なマネジメントのフレーズは、人の心には絶対に響かない。
「どうして出来なかったんだ!」という一方的な叱咤(シッタ)でもない。
「どうしたら出来る?」という都合のいい問い(丸投げ)でもない。
相手のフェーズに合わせて丁寧に伴走し、情報の整理を手伝った上で、「どうしたら出来ると思う? 一緒に考えてみよう」と背中を押す。それだけの「腹」を括(くく)ってはじめて、言葉は育成の道具になるのである。
(文/山田郁二)