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今日8月15日は、戦争の終結と復興の始まりの起点となる「終戦の日」

この日は、かつての戦争で命を落とされた無数の人々を悼み、焦土と化した祖国を血と汗で復興させてくれた先人たちへの感謝を捧げる日で、私たちが今こうして穏やかな日常を享受できているのも、すべてはその尊い犠牲と不断の努力の上に成り立っている。その重みを想うとき、胸の奥に静かな祈りと痛惜の念が湧き上がってくる。

同時に、この日は「なぜあの戦争に至ったのか」「平和を保ち続けるとはどういうことなのか」を、現在と未来に向けて問い直す日としたい。

かつて日本が太平洋戦争へと舵を切った背景には、アメリカによる石油の全面禁輸をはじめとする厳しい経済封鎖があった。「このままでは戦わずして干上がり、国家として窒息する」という恐怖と焦燥感。自国の存亡をかけた自衛の論理と、欧米の植民地支配からアジアを解放するという大義名分を掲げ、日本は国力で圧倒的に勝る相手へと立ち向かっていった。それはまさに「窮鼠猫を噛む」心理状態であった。

しかし、国民の生命と暮らしを守るはずの戦争が、結果として国土を焦土と化し、膨大な国民の命を奪うという最大の矛盾を生んだ。袋小路に迷い込む中の、国家の舵取りの難しさが身に染みる。

戦争は往々にして「善と悪」の戦いではなく、互いが信じる「善と善」「正義と正義」の衝突から起こる。だからこそ引き返すことが難しく、現代の世界においても悲劇が絶えることなく繰り返されてしまうのだろう。

では、他国からの理不尽な圧力や侵略を防ぎ、国家の尊厳と国民の平和を守り続けるための現実的な道はどこにあるのか。

大国の言いなりになる「下請け」になれば、いつか都合よく切り捨てられる。かといって軍事力だけで威圧し合えば、いつか衝突の火種となる。 生き残るための戦略は、「相手にとって、存在していなければ、自らも立ち行かなくなるほどの無くてはならない存在になること」ではないだろうか。

世界中の人々の暮らしや産業という「日々の営み」の奥深くに、不可欠な存在として溶け込むことだ。 日本の誇る技術、誠実なものづくり、代替の利かない素材や部品、そして信頼される仕組みや文化――それらが世界の血管や神経のように組み込まれていれば、世界はその国を破壊することができなくなる。壊せば自らも傷を負う「三すくみ」の相互依存こそが、戦争の誘惑を思いとどまらせる最大の防壁となる。

しかし、どれほど世界の営みを支えるインフラとなったとしても、それだけで完璧な平和が保証されるわけではない。 相手が理性を失ったとき、無防備な善意は時に略奪の対象にすらなり得る。

だからこそ、日々の営みを支える「不可欠な価値」を磨き続けることと同時に、理不尽な暴力に対して自らの尊厳と国民を守り抜く「最低限の抗う力」と気概を持つこと。例えていうなら、玄関の施錠であり防犯カメラを付けるに近い。この両輪が揃って初めて、他国からの真の敬意が生まれ、対等で侵されざる平和が確立されるのではないだろうか。

「平和」という言葉を唱えるのは易しい。しかし、それを冷徹な国際社会の現実の中で実践し、持続させることは途方もなく難しい。

終戦の日にあたり、多くの命の上に築かれた今日の平和を憂い、感謝するとともに、私たちは問い続けなければならない。 感情的な対立に流されず、孤立した「窮鼠」にもならず、世界中の人々の営みに必要とされる価値を地道に磨き上げること。そして自らの誇りを守る覚悟を持つこと。それこそが、過去の痛切な犠牲から私たちが受け継ぐべき、最も現実的で力強い「平和への誓い」といえるのではないだろうか。

(文/山田郁二)